こんにちは! 理事長の辻 耀子(つじようこ)です。
ちょいとマジメなつぶやき。
私は、自分の人生がわりと辛かった事もあり、人生の前半は、「なぜ理不尽な目に遭う人がいたり、試練があるのだろう?」と怒り混じりに本気で考え抜いてきた人生でした。
今この時期も、「何で地球規模でこんな事に…」と考えているかたも多いかも知れませんが…。
試練をきっかけに、意識転換が出来たか、出来ないか
私、医療健康系の会社をやり、心理カウンセラーもやり、レイキ協会もやりながら、一人でいる時間の大半、以下のような事ばかり考えてきた人生です。
「人が不幸な試練に遭う時、どのように捉えればいいのか?」
「不幸の悪循環の中にいる人が、その環境から抜けて幸せな人生を生きるには何が必要なのか?」
「不治の病が奇跡的に治る人、不幸のドン底から立ち上がって軌道修正する人の共通点は?」
…でね、数年前、この答えに行き着いたのです。
「試練をきっかけに、意識転換が出来たか、出来ないか」
…意識転換とは、シンプルに言えば
ナイナイモードから
アルアルモードに変わる事です。
「あれがない、これがない、あれも足りない、これも足りない…政府は何をしてるんだ、国は、学校は、会社は、うちの家族は…」
これをナイナイモードと私は名付けています。
不足感からくる不平不満のモードです。
アルアルモードは、この逆です。
気休めの話をしているのではありません、捉え方の話でもありません。
本当に、我々には実に潤沢に、さまざまなものが与えられており、それは無料のものも多いです。
なのに昔の私は、本気で本当に…どうしようもないほどの「ナイナイモード」でした。
生きてる事がきつすぎて、いつも怒ってました。
怒りの矛先は親、学校、先生、人類、それから天?神?運命?などです。
カンボジアで思い知った、日本と対極の価値観
20年ほど前、カンボジアへ旅行に行きました。
30歳の男性のカンボジア人の通訳ガイドさんと一緒に観光しました。
この時、私は頭をガツンと打つほどのショックを受ける事になります。
男性旅行ガイドさんと共に、友人達とクルマに乗っている時のこと。
とても可愛い、小さなピンクの屋根の小屋が20戸ほど、平原の中に建っていました。
内戦が終わった直後のカンボジアで、そこはまるでアミューズメントパークのように綺麗でした。
「あれは何ですか?」
ガイドさんは笑顔で答えました。
「あぁ、少女買春の小屋ですよ」
私は聴き間違えたかと思いました。
が、ガイドさんは笑顔で続けます。
「あそこで仕事ができる子供は、本当に幸運です。なぜなら、地雷を踏む危険がないからです」
…その後、そのガイドさんと色々話をしました。
そのガイドさんのご両親は内戦で殺されていました。
兄弟姉妹達はみんな、地雷を踏んだり、貧困で亡くなっていました。
その人は一人きりでした。
しかし、笑顔でこう言ったのです。
「僕は、産業廃棄物の山の中で一冊の辞書を拾ったんです。日本語の辞書でした。本当にツイてました。日本語を勉強できたからです。
その後、何年もかかったけれど、日本人のビジネスマンに話しかけては、日本語会話を覚えました。
そして旅行ガイドになれたんです。」
ガイドさんは、笑顔のまま、土の上に棒切れで「醤油」と書きました。
「これ、書けます?日本人でも難しいでしょ?僕、書けるようになりました」
次に「薔薇」と書きました。
「この字は書けますか?読めますか?僕、書けるようになりました、嬉しいです」
私は本当にショックでした。
買春=犯罪
子供の虐待、ひどいこと。起こってはならないこと。
この常識は、恵まれた国 平和な日本の価値観であり、当時のカンボジアでは…その男性の価値観では、「地雷を撤去された幹線道路に面して建つ、その職場で働ける子はとても恵まれている」という事だったのです。
危険を犯して産業廃棄物のゴミ山をあさり、兄弟姉妹がその過程で亡くなり…そこから這い上がった人の視点。
一冊の辞書に感謝し、それを拾えた自分を幸運ですと言い、被害者意識で生きていなかった彼。
「カンボジアに旅行に来て下さり、ありがとうございます」
と言ってくれた彼。
あの日は本当にショックで、忘れられない日となりました。
それは、『恵まれてる事が見えておらず、手に入って当たり前』という意識の自分に気づいた瞬間だったのです。
目の前のささやかな幸せを、細やかに拾い上げること
不平不満。
被害者意識。
理不尽な目に遭えば、怒りは当然です。
私は我慢していきるべき、無理にでも感謝するべき、と言いたいのではありません。
嘆きたくなる事、ありますよ…当然です。
しかし、「今手に入っているもの」に対して「当たり前」と思ってきた自分に気づかずにいる時に、その試練は、重いストレスとしてのしかかるのだなぁ、と気づいたのです。
結論。
目の前にある、ささやかな幸せや恩恵を、いかに細やかに…繊細に拾えるか。
顔に当たる春の日差し、そよ風、蛇口から出る透明な水。
屋根のある部屋、暖房、今日私が使ったものの全て。それらを作ってくれた人。
愛、感謝、心遣いや思いやりをどこまで拾えるか。
試練がなければ…毎日がのほほんとしていれば、私はそれらに囲まれている事が当たり前になり、小さな事に無感覚になる。
そして「ある」のが当たり前になってしまったまま生きている時ほど、不測の出来事や試練にぶつかった時にナイナイモードになる。
その結果、不平不満、怒り、被害者意識がつのる。
その結果、人生を嘆くようになる。
「当たり前」になると感動がなくなる。それが普通になる。
それが続くと私は退屈になり、「まだあれが手に入ってない」という具合に、ナイナイモードに突入しやすくなるのです。
その結果、私の場合は過労とストレスと人への怒りで重い病気になりました。
感謝がなく、人からの愛や思いやりが見えておらず、「自分ばっかりこんな目に遭う!」と怒っていたため、内臓を痛めたのでした。
その後、病気が奇跡的に治ったかたや、心理相談業をする中で、人生が奇跡的に好転したかたを、人よりも多く見てきました。
彼らは、みんな共通して同じ事をつぶやきました。
「あの試練のおかげで、今まで見逃していた小さな感謝、人の愛や思いやりに気づけるようになったんです」
生きてると、未曾有の試練や出来事にも出くわします。
しかしその時に、意識を進化させた人…、つまり、愛や思いやりを細やかに拾い上げ、恩恵に感謝出来た人は、その試練から抜け出し、心の底から「ありがたいな…」と呟く人生になるのです。
心身健康。感謝と喜びの人生の始まりです。
この心境を、私はアルアルモードと名付けてみました。
カンボジア人の、あの旅行ガイドさんは、アルアルモードの人でした。
親や兄弟姉妹の死を嘆いていませんでした。
戦争を、政府を嘆いていませんでした。
一冊の辞書に感謝し、生きてる事に感謝し、旅行ガイドを楽しんでいました。
作り笑顔ではなく、本当の笑顔で過ごしていました。
私は、あの日の体験を忘れずにいたいと思っています。
今回のように、社会がパニックになったり自然災害が起こると、あの日を思い出し、あのガイドさんの顔を思い出します。
そしてあの日の体験があるから、今、この状況でも、毎日ゴキゲンを保てています。
(うちの協会や会社は、先月も今月も売り上げを更新し、スタッフさんには、来月はさらに業務費をお支払い出来ます。)
(昨日5月のレイキ講座、予約受付開始しましたが、ご予約殺到しています。嬉しい!意識が軽やかになるかた、これでまた増えるといいなぁ~~♪)
もしも「私は今、試練の中にいる」と感じるかたがいるならば、小さな幸せ、恩恵、思いやりを虫メガネで見つけてみて下さい♪
100個見つけるゲームをしてみて欲しいのです♪
試練に意義を見つけるとするならば、『意識の進化』です。
進化した先に待つのは、日用品の買い占めではなく、「うちに余ってるよ、取りにおいでよ!」と伝えあう、分かち合いと思いやりの世界です。
私はそんな地球がみてみたいのです!!♪
つぶやきを読んでくれてありがとうございました。
この後も、どうぞいい一日になりますように…♪
つじようこ
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